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大体三匹ぐらいが斬る!! back next登場人物
武藤玲司(鯖丸) 貧乏な大学生。魔力と食欲が同レベルに高い。剣道部所属。
ジョナサン・T・ウィンチェスター(ジョン太) 犬型ハイブリット。魔法は使えないが、素で強い。元軍人らしい。
暁(鰐丸) おいしい場面で出て来る鯖丸の別人格。
土方里見(バラクーダ) NMC中四国支所の所長。元ヤン。色んな意味で男前なおばちゃん。
斉藤さん NMC中四国支所の事務パート。何事にも動じない中高年。
斑と平田 NMC中四国支所社員。本社出向から戻って来た、スパイダーネットを操る夫婦コンビ。
戒能悠木奈(サキュバス) 依頼者の娘でターゲット。性的な特殊能力を持つ魔女で、定期的に魔界に家出して、男遊びを繰り返している。
大体三匹ぐらいが斬る!!
3.鰐丸(後編)
ホテルに戻って風呂に入ると、だいぶ気分が良くなった。
サキュバスに捕まった時の、嫌な感覚もほとんど消えている。
皮肉な話だが、魔力が低い者の方が、魔法防御は高い。
バスタオルを腰に巻いて風呂から出ると、ベッドの上で寝転んで本を読んでいた鯖丸は、不思議そうな顔でしげしげとこっちを見た。
まぁ大体慣れている。
原型に近いハイブリットの、普段服で隠れている部分がどうなっているのか、興味をそそられる人間は多い。
腹の辺りは少し薄いが、大体全身が白い毛皮で覆われていて、背中と手の甲や肘の辺りは、灰色になっている。
おおむね顔と同じ毛色だ。
今まで何度も仕事で宿には泊まったが、部屋に風呂がある様な、普通のホテルは魔界には少ないので、お互い服を脱いだ所は、見た事がなかった。
「わぁ、ジョン太ふわふわだ。触っていい?」
不躾な事を言いながら、本を畳んでこっちへ来た。
「ダメだ。実はごわごわだから」
断ったのに背中の毛を触られた。
「本当だ。けっこう剛毛だね」
不愉快そうに視線をそらす奴や、気の毒な人を見る目で、優しい(自称)視線を向ける、自分をいい人だと思っているアホは、全員ぶっ飛ばす事にしていたが、天然には対処出来ない。
「あっ、胸の毛は柔らかいんだ。でも、何でありんこがこんなに?」
「それはみっちゃんが…」
うかつに、嫁の変わった性癖まで口走りそうになって、あわてて自分の口を塞いだ。
「お前も風呂入れや。楽しみだったんだろ、便所風呂」
着替えの下着と、すっかりダメになってしまったズボンの替えをダッフルバッグから出しながら、ジョン太は言った。
「うん、今日はちゃんと、髭剃りと歯ブラシ持って来た」
ご自慢な感じで、ぺらぺらな鞄から、安全カミソリと歯ブラシを取り出した。
それ以外の物が全く入ってなさそうな鞄の薄さが気になる。
「それ、普通のホテルは、備品であるから」
「うそ」
そういう事は、早く言ってよ…と、ぼやきながら、鯖丸は服を脱ぎ始めた。
「ジョン太はいいよね。ヒゲ剃らなくていいから」
毎朝、鏡に向かって渋い男の深剃り二枚刃とかいうアホな展開にあこがれていた過去があるので、ジョン太は返事に困った。
「まぁ、便利かな」
鯖丸に背中を向けてから、バスタオルを外してパンツを履いていたのに、わざわざ回り込んで来てじっくり見られた。
「あ、普通」
「普通って言うなー!!」
嫌な過去が甦ったので、思わず首を絞めてしまった。
大体、戦闘用ハイブリットの先祖返りと言うだけで、皆、多大な期待をし過ぎるのだ。
本気の戦闘用なら、めんどくさい生殖器なんか付いてない方がいいに決まっている。
宇宙開発の初期に、製造コストのかかるハイブリットを、更に金をかけて宇宙へ送るより、行き先で増えてもらった方がいいと判断した学者が居たのだ。
倫理的に問題はあったが、予算としては物凄い節約になったので、皆が計画を承認した。
大規模な戦争が起こり、ハイブリットの父とも呼ばれたその学者が死んだ後に、大変な事実が発覚した。
人工的に作られたハイブリットが、普通の人間とも交配可能で、もう後戻り出来ないくらいお互いの間で混血が進んでいたのだ。
一時は、厳格な遺伝子チェックと、差別政策を取っていた国連議会も、リベラルな芸風を誇るカナダ政府辺りからじわじわ広がった解放運動に負けて、ハイブリットと一般の人間を差別する事は避けている。
今現在、両者の間に残っている厳格な差別と言えば、感情的な問題を抜きにすれば、公式なスポーツ競技への参加くらいだ。
これだけは、生まれ持った性能が違い過ぎるので、同じ土俵で戦うのは不公平だという意見は、あっさり通った。
ジョン太にしても、十代の頃には、何の訓練も無しに百メートルを六秒台で走れた。
こんな奴をオリンピックとかの競技に出すのは、絶対反則だという事は、自分でも分かる。
中年になった今でも、普通の人間の百メートル世界記録保持者を軽く抜く自信はある。
ただ、下半身の問題に限って言うと、ハイブリットは普通だ。
その普通さが、全然理解されていない。
「普通じゃダメなの」
鯖丸は聞いた。
それは、普通の方が嬉しいが、こういう場合の普通は、たいがいダメな意味だ。
ケダモノの様な外見なのに、何でここだけ普通なのとか、そういう感じの。
「俺は普通でいいんだけど、世間が納得しなくて…」
「へぇ」
どうでも良い感じで、普通の部分は素通りして、怪我をした太股に目をやった。
「痛くない?これ」
「ちょっと痛いよ」
正直に言った。
「でも、骨は外してるし綺麗に弾は抜けてるから、大した事はない」
「良かった」
安心したらしく、下着のTシャツとトランクスを、ベッドの上に抜ぎ捨て、ハンドタオルとバスタオルを手に取った。
体育会系の奴は、割と簡単に同性の前で裸になるのは、軍隊と大体同じだと分かっていたが、久し振りに見たので少しうろたえた。
ちよっとくらい前は隠せよと思ったが、本人は全然気にしていない。
かまいたちにやられた傷が、まだ痛々しい感じで残っていたが、長い手足にバランス良く筋肉が付いた、いい感じの体だ。
少なくとも、十代半ばまで、低重力コロニーで育った人間には見えない。
ここまで鍛えるのに、どれくらいの努力が要ったかと思うとぞっとするが、今現在の鯖丸からは、そういう暗い部分は全く見えなかった。
ただ、努力では鍛えられない部分が、ちょっと凄過ぎる。
「うわ、無駄に立派だなそれ。使う予定もないのに」
昔から、普通の人間だったらいいのにとは思っていたが、こんな部分だけ普通だとかえってむかつく。
「その内使うよ」
むっとした顔で言われた。
「付き合って三ヶ月くらい経った彼女と、海辺の見える公園でデートした後、ええ感じで…」
「それ、童貞の妄想だから」
ジョン太は、釘を刺した。
「いいじゃん、夢くらい見ても」
鯖丸は、文句を言いながら風呂に入った。
あっという間に出て来て、脱ぎ捨てた服を再び着始めた。
「お前、着替えは」
不安になって、ジョン太は聞いた。
「無いよ、三日くらいだし」
嫌な回答が帰ってきた。
「大丈夫だよ。今度の装備は、山本に選んでもらったんだ。一週間くらい着たままで日本アルプスを縦走しても耐えられるって言ってた」
前回かまいたちに装備をぼろぼろにされた時、所長はめんどくさかったのか、資金だけ渡して鯖丸に勝手に装備を選ばせていた。
ワンゲルの友人が選んだ逸品らしいが、ここは山の上じゃない。
「耐えるな、平地なんだから洗え」
「めんどくさいから嫌だ」
凄い意見だ。
こんなで、普通の女の子とええ感じになろうとしている鯖丸の人間性が、根本的に間違っている。
「お前、所長みたいなタイプ、好きだろ」
「うん。かっこいいと思う」
思いの外積極的な意見だ。
「お前はもう、同年代の女は無理だと思う。これからは熟女マニアで行け」
「ええ、何で始まる前からマニアック宣言?大体、所長結婚してるじゃん。俺、そういうの気になるし」
「この業界で、細かい事気にするなよ」
「するよ、普通だから」
「お前は、普通じゃない」
「普通って言って。お願いだから」
目指す方向は違うのに、到達地点は似た様な感じになって来た。
「とにかくパンツ買って来い。三日間同じのは、生理的にダメだ俺」
自分ではく訳でもないのに、何本気になってんだ、このおっちゃんは。
「うう、抗菌防臭加工で一週間安心なのに」
文句を言いながら、出張用にもらった財布を持って、鯖丸は部屋を出た。
何でも売っている街だから、下着くらいすぐに買えるだろう。
「ついでに工場見て来ていい?すごい建物なんだ、あれ」
「いいよ、今日はもう、メシ食って寝るだけだから」
あんなスクラップのどこがいいんだか…と、ジョン太は思った。
出掛けた後に、鯖丸が読んでいた本が目に付いた。
どこかから借りて来たらしく、管理用のタグが付いている。
宇宙船のエンジン設計に関する専門書で、一通り目を通したが、ジョン太にはそれ以上の事は分からなかった。
「そう言えば、あいつ理工学部とか言ってたなぁ」
溝呂木の所でスポーツ根性マンガの様に剣道に明け暮れているのは知っていたが、そもそも何を目標にして学校に通っているのかは、全然知らなかった。
「宇宙船かぁ」
生まれた場所に帰りたいのかも知れない。
それとも、もっとずっと、遠い所に行きたいのだろうか。
ジョン太には、分からなかったが、鯖丸の気持ちは、少しだけ分かる気がした。
ふと思い付いて窓から通りを見下ろすと、鯖丸はホテルを出て表通りに向かっている所だった。
「おおい、靴下も買えよ。二足」
とうとう、おかんの様な事を言い始めたジョン太に手を振って、鯖丸は歩き出した。
背後から、四人の男達が走り寄った。
嫌な感じがした。
窓から飛び降りようと手をかけたが、換気は出来ても大きく開かない構造になっている。
「くそ…割るか」
派手な音を立てるのはまずい。
男達が鯖丸の腕を掴み、一人が背中に銃を突きつけるのを確認して、部屋を飛び出した。
廊下を走り抜け、非常口から外へ出た。
丁度、狭い横道に連れ込まれる所だった。
時間が惜しいので、階段を使わずに飛び降りて走った。
普通に考えれば追い付ける距離だったが、角を曲がった時、鯖丸と男達の姿は、どこにもなかった。
ホテルの備品で置いてある、安っぽいシャンプーの匂いも、その場で消えている。
「やられた」
サキュバスは、追っ手が来ているのは知っていたのだ。
毎度の事だから、来るタイミングも分かっていたのだろう。
うかつに捕まってしまったから、今度の追っ手が男二人だという事も分かっている。
とりあえず、若くてぴちぴちした方からお持ち帰りされてしまった。
「大変だ、こりゃ」
先刻、サキュバスが居た場所まで行ってみた。
広場には粗大ゴミ状のソファーが転がっているだけで、周囲にも人の気配は無くなっていた。
「どうしよう」
ジョン太は、呆然としてつぶやいた。
「所長おぉぉ、鯖丸がさらわれた」
ホテルに駆け戻ってドアを叩くと「開いてるから入れ」と声がした。
部屋に駆け込むと、下着姿でベッドの上にあぐらをかいた所長が、ワンカップ片手にするめを食っていた。
そんな格好で入れとか言うな…と思いながら、ジョン太は視線をそらした。
「何だ、段取り悪い奴だな。さらわれるなら明日にしてくれればいいのに」
髪の毛をゴムで縛って、ジャージを着込み始めた。
「で、どこに連れて行かれた」
「分かりません」
ジョン太は言った。
「痕跡が消されてて」
「そうか」
手の平を広げた所長は、短く韻を踏んで何かをつぶやいた。
小さな、ぼんやりした光の玉が、手の中に浮かび、一人でふわふわと漂い始めた。
「こんな事になるかも知れないから、あいつには印を付けておいた。行くぞ」
刀を掴んで立ち上がった。
「所長。まさかそれ、俺にも付けてないですよね」
ジョン太は聞いた。
「サキュバスは、おっさんも割と好きだ」
「付いてるんだ…」
どちらかが囮になる運命だったらしい。
急いで部屋に戻ったジョン太は、装備を調えてから鯖丸の刀を掴んで、所長の後を追った。
行き先が分かったのは有難いが、光の動きは、イライラするくらい遅かった。
鯖丸が消えた場所に行き着くまでに、二分以上かかっている。
「早くしないと、あいつ干からびて死ぬかも」
「だったらまだいいが」
光は、道なりに飛び続けていた。
痕跡は消されているが、確かにこの道を通って行ったらしい。
「操られて敵に回ったら、厄介だ」
鯖丸が、高速で飛び回りながら、日本刀を振り回して襲いかかって来る所を想像した。
絶対、敵には回したくない。
「こっちは本名押さえてるから、いざとなったら止められるが、あいつも私らの名前は知ってるはずだからな。
ランクSに名前を呼ばれたら、私でも動けるかどうか…」
ジョン太は、しばし考えてから言った。
「あ、大丈夫です。あいつ雑な奴だから、所長の名前憶えてませんよ」
「うわー、ダメなバイトの見本だな」
所長は呆れた。
「もしかして、お前のフルネームも、知らないんじゃないか」
「知りませんね。言った憶えないし」
名刺にも、ミドルネームは頭文字しか書いていない。きっと知らないだろう。
とりあえず、敵に回っても大丈夫そうだった。
街を抜けて、海が見えて来た。
日は落ちているが、まだ少しだけ明るさが残っている。
周囲には、高級な別荘やリゾートホテル風の建物が並んでいた。
けっこう上の方の地位の人間も、ここへ仕事で来る事があるのだ。
光の飛ぶ速度が、速くなった。
一直線に、海岸沿いの建物に向かっている。
けっこう大きな別荘だ。
洋風の作りで、周囲には広い庭がある。
「戒能の別荘だ」
所長は言った。
「それ、もう家出じゃないでしょう」
単に、自分家の別荘に遊びに来ただけだ。
光が家の中に吸い込まれるのを確認すると、所長は立ち止まった。
「お前はここまでだ。援護しろ」
別荘としては大きくても、建物の中に踏み込めば、確実に百メートルの範囲内に入る。
ジョン太は、建物全体を狙える場所を物色した。
一人で行くのは絶対無茶だが、自分が行っても足手まといになるだけだ。
「これ、持って行ってください」
鯖丸の刀を渡すと、所長はうなずいて受け取った。
そのまま、後も見ないで庭を横切って行った。
ジョン太は、向かいの建物に走った。
似た様な別荘だが、幸い鍵がかかっていて、無人だった。
ピッキングで入り口を開けたジョン太は、上の階への階段を捜した。
玄関は開いていた。
常夜灯が点っていて、ぼんやりとエントランスを照らしている。
発光魔法ではなく、電気の照明だ。
海に面したこの場所では、魔界に属さない対岸から、海底ケーブルで電力を引いているのだ。
とてつもない贅沢だ。
所長は、煙草に火を付けてポケットに手を突っ込んだまま、ぶらりと敵陣に踏み込んだ。
ジョン太が居たら、的になるからと絶対に止められる行為だが、煙草はドラッグ程ではないが多少魔力を増幅する。
どうせ、こっちが来るのは分かっているのだから、逃げ隠れしても無駄だ。
ぷらぷらと歩きながら、ドアを見付けると蹴り飛ばして中を確認した。
誰も居ない。
元々使わない時は無人なのか、お嬢様が家出して来たら、危険だから逃げる事になっているのか、これだけの屋敷なのに、使用人らしい人間の気配も無かった。
人の気配は全部、上から来ている。
嫌な感じの魔力も、二階からじくじく湧き出していた。
「ちっ、めんどくせぇな」
だらだらと階段を登り、最後の二段を残して、ふいに止まった。
居る。
短時間で決めた方がいいと判断して、自分のではなく、鯖丸の使っている長くて重い刀を引き抜いた。
こんな得物を長時間振り回すのは無理だが、破壊力は高い。
おまけに、魔力だけはバカ高いあのガキが、何回も力を通しているので、刀の方で攻撃力を底上げしてくれる。
びりっと腕が痺れた。
煙草の煙を、すぱぁと吸い込んで吐き出してから、一気に残り二段を飛び上がった。
「よーし、来いやぁ」
床に手の平を叩き込んだ。
床から、天井から、無数の壁がばきばきと伸び上がり、あっという間に五人程が宙に吹き飛ばされ、倒れた。
壁を吹き飛ばしながら魔法が来た。
使える奴はそれ程多くない雷撃系で、人の頭程もある球形の雷が、こちらに向かってぶっ飛んで来る。
まともに当たったら、一瞬で黒こげの死体だ。
刀の切っ先まで魔力を通すと、ぶうんと刀身が振動した。
輪郭がかすかにぼやけた。
そのまま、力は入れないで、ふいと雷撃を押し返した。
行き先を失ってランダムに飛び回った雷球は、廊下の向こうで物凄い落雷を起こし、消えた。
術を使っていた奴も、最悪死んだかも知れない。
刀を肩に担いで、ぐちゃぐちゃになった廊下に、ぶらりと踏み出した。
即座に飛び出して来た三人は、普通に刀で叩き伏せた。
先頭の一人は、こちらが攻撃する前に、胸から血を噴き出して倒れた。
ちょっと遅れて銃声が聞こえた。
ジョン太が、いいポジションに付いて援護を始めている。
以前斑と来た時程は、腕利きを集めていない。
あの時は最悪だったが、魔界もそんなに広くないし、腕の立つプレイヤーや魔法使いの数も、限られている。
ほとんど全員、二人で再起不能にしてやったからなぁ…と、思い出すとちょっと気分が良くなった。
その前に、二人で捕まって、素人物のAVが十本は作れる様な目に遭わされたので、その程度でちゃらにしてやるつもりは全くないが。
「今度は、手応えないな」
口に出してから、嫌な感じがして止まった。
確実に、この先の部屋にサキュバスが居る。
しかし、それとは全く違う、強くて凶暴な魔力が流れ出していた。
暗くて深い場所から湧き出した、大き過ぎる力が、闇雲に暴れ狂っている。
こんな奴が魔界に居たら、ウワサでも知っているはずだった。
いや…待て。知り合いだ、これ。
戦力が減らされたら、補充するのは当然だ。
精気を吸うより、手下にした方が、絶対役に立つ。
「くそ、めんどくさい事に」
両開きの豪勢なドアを蹴り開けると、広い部屋の奥で、天蓋付きのベッドに全裸で両手両足を縛られている鯖丸が居た。
勃起したペニスだけが、全体からちょっと違和感があって笑える。
「あっ、所長ー」
助けに来てくれたんだと、嬉しそうな顔になったが、自分の状況に気が付いて体をよじった。
「嫌ー、見ないでー」
「手遅れか?」
一応聞いてみた。
「まだ。でも、やばい。俺の事はもういいから逃げて」
「手遅れだよ、バラクーダ」
ベッドの向こうで、サキュバスが立ち上がった。
素肌に着た革ジャンの下から、白い乳房が見えている。
ここからは確認出来ないが、下は何も付けていないと思われた。
ばらりと乱れた黒髪の下で、凄みのある顔でにっと笑った。
背後から、まだ残っていた男達が近付いていた。
反撃しようと、刀を握った手に力を込めた時、ふいに呼ばれた。
「土方里見。止まれ」
全身が固まった。
何で本名を知られてるんだ。
少し考えて、思い当たった。
戒能の持っている情報網を使えば、NMC社員全員の名前を調べるのは、難しくはない。
だが、こっちも相手の名前は押さえている。
押さえ合いになったら、魔力の高い自分が勝つに決まっている。
「戒能…」
言いかけた所で男達に口を塞がれ、床に押し倒された。
全員、低い姿勢を確保して、窓からの狙撃範囲を避けている。
やばい、ジョン太の事も知られている。
「所長、里見ちゃんだったんですね」
捕まったままの鯖丸が、間抜けな事を言っている。
だからどうした…と思ったが、所長の名前も今初めて知ったダメなバイトは、納得した感じでうなずいた。
それから、少し深呼吸して、低い声で淡々と言った。
「土方里見、立て」
ランクSの命令は、サキュバスの命令を何事もなかったかのようにキャンセルするくらい強烈だった。
自分の意志に反して、ぐわっと体が立ち上がった。
引きずられて一緒に立った男の一人が、次の瞬間銃弾で打ち抜かれて倒れた。
ジョン太もいい加減気が立っているらしい。
どうやって装弾したのかと思うくらい短時間で、反対側の腕を掴んでいた男も撃ち倒された。
残り二人は、所長があっという間に叩き伏せた。
「終わったな、サキュバス」
強烈な命令を食らったので、手足に力が入らない。刀を杖にして、何とか立った。
「うちの若い者を返してもらおうか」
ヤンキーと言うよりヤクザのセリフだ。
「所長かっこいいー」
思い切り懐かれている。
「終わったと思うのか」
サキュバスは、にやりと笑った。
明らかに人間の物では無くなっている、尖った歯がこぼれた。
次の瞬間、無数の触手が伸び上がった。
イソギンチャクの触手に似ていない事もないが、もっと均等な長さで肉色で、先端が丸くなっている。
一番似ているのは、エロゲーとかに出て来る、触手物のアレだ。
唯一違っているのは、先端に赤い口紅を塗った様な女の口が付いている事だ。
無数の触手は、あっという間に鯖丸の全身を覆い尽くした。
「どんなマニア向けだー」
所長は一応突っ込んだ。
鯖丸はくぐもった悲鳴を上げたが、それもすぐに聞こえなくなった。
触手の固まりから突き出したつま先が痙攣している。
えぐい光景だ。
普通に犯された方がまだましだったな、気の毒に。
刀を構え直した所長に、サキュバスが言った。
「動くなよ。こいつを生かすも殺すも、もう私の自由なんだから」
さっきどつき倒した二人の男が立ち上がった。
両脇から再び腕を押さえられたが、ジョン太は狙撃して来なかった。
「上司より相棒を取ったな…犬のくせに」
サキュバスは笑った。
すうっと、無数の触手が吸い込まれる様にサキュバスの股間に引いて行った。
あれだけの触手が、サキュバスの小さな体に収納出来るはずがない。
もしかしたら実体のない幻覚なのかも知れなかった。
触手から解放された鯖丸は、普通に起き上がり、にこりと笑って所長に歩み寄った。
「お前、無事…」
目つきが普通ではない。こいつの場合、何が普通か迷う所ではあるが。
「じゃないな、残念ながら」
こちらに手を伸ばして、背中にかけた刀をすらりと抜き取った。
いつも使っている実用刀だ。研ぎに出したばかりなので、物凄くよく斬れるはずだ。
斬られると思った。
こいつの腕は知っている。
新しくなった刀の試し斬りで、分厚い昔の畳を、袈裟懸けに真っ二つにして「わぁ、良く斬れる」とか、無邪気な事を言っていた。
刀が、斜め上段に構えられた。
切っ先が震えている。こいつらしくない。
ふいに、目の中に一瞬だけ正気が戻った。
「所長…」
しゃべるのが辛そうだ。表情が笑ったままなのが怖い。
「ジョン太に、俺を撃てって、言ってください」
ジョン太なら、聴覚も普通の人間ではないので、この距離でも聞こえているはずだった。
「ダメだ」
イチかバチかで命令をかけてみた。
「武藤玲司、正気に戻れ」
命令が通ったのは、一瞬だけだった。男に関しては、サキュバスの縛りの方が大きい。
一拍置いてから、刀が振り下ろされた。
たぶん死ぬなと思った。
振り下ろされた刀は、肩の少し上でぴたりと止まった。
「ああ…」
目の前の男は、刀を手に持ったまま、大きく伸びをした。
「また変な事になってるな」
ふう…と両手を下ろし、辺りを見回した。
「いつもこうだよ、玲司の奴」
自分の名前を、人事の様に口に出してから、背中をかがめて所長に顔を近づけた。
「あんたが呼んだのか、おばちゃん」
顔も体も同じなのに、口調も表情も、知らない男だった。
「呼んでないよ。誰だ、君」
鯖丸に何が起こったのか、事情を知らない所長には分からなかったが、目の前に居るのが別の人間だという事だけは分かった。
「ええと」
さっきまで鯖丸だった男は、少し考え込んだ。
「魔界で本名はマズイんだったな」
その辺のルールは、知っているらしい。
「とりあえず、俺の事は鰐丸って呼べ」
言いながら、所長を押さえている男を、ヤクザキックで蹴り飛ばし、反撃しようと抜いた銃ごと腕を切り落とした。
反対側に居た男は、逃げようとしたが、ずぶりと腹に刀を差し込まれ、倒れた。
「良く斬れるな、これ」
にっと笑って、血だらけの刀を見た。
言っている事は鯖丸と同じだが、怖い。
「お前は、鯖丸には大事な奴らしいから、助けてやる」
所長の顎に手をかけて、上を向かせてから、言い聞かせる様に言って、怖い顔で笑った。
それから、ひょいと突き放した。
「鯖丸だって…。相変わらずだせぇ奴」
普通に、サキュバスの居る方へ歩いて行った。
途中で、壁の鏡を見て立ち止まった。
「うわ、ごついな俺。いつの間にこんなになったんだ」
体中を確認して、まんざらでもないという顔をした。
「力もあるな。暴れやすそう」
そのままずかずかとサキュバスに歩み寄ったが、完全に存在は無視して、傍らに落ちた自分の服を拾って着始めた。
「くそっ、相変わらず服もだせぇ」
文句を言いながら着終わって、隣に居るサキュバスにやっと気が付いたと言う顔をした。
その間サキュバスはずっと、さっきまで操れていた男を再び動かそうとしているらしかったが、途中から顔色が変わっていた。
男相手に自分の魔力が通らなかった事など、今まで無かったに違いない。
「ああ、何やってんだてめぇ」
全く、一瞬のためらいもなく、小柄な女の腹に、本気の蹴りを入れた。
「気持ち悪いんだよ。寄るな淫乱」
サキュバスは、体をくの字に曲げて、部屋の隅に倒れた。
「ところで、どいつを殺ればいいんだ」
「ああ、今のそれ」
所長は言った。
異変を感じたジョン太が、持ち場を離れて駆けつけた時、鰐丸はサキュバスの髪の毛を掴んで持ち上げ、ぼこぼこにしている所だった。
所長は、もう止めるのを諦めて、イスに座って煙草を吸っていた。
「うわ、暁かお前」
鰐丸は、サキュバスを殴るのを止めて、ジョン太の方を見た。
それからゴミみたいに女を放り出して、ジョン太に歩み寄った。
しげしげと周りを回って見てから、近寄って手を握った。
「ジョン太?やっぱり生で見るとステキ」
手の平を指先でくりっとなでられた。
ジョン太の全身の毛が逆立った。
「放せ。お願いします、放してください」
もう、泣きが入っている。
「どういう事だ、これは」
所長は、腕を組んだ。
「ああ、話すと長いですよぉ」
鰐丸にべったり寄りかかられて、声が震えている。
こういうキャラだったのかよ、ゲイだとは聞いてたけど。
「別に長くねぇ。多重人格ってやつだよ。分かったらてめぇは帰れ」
しっしと手の先で所長を追い払おうとしている。
こいつ、絶対所長に殴られると思ったが、彼女は刀を拾い上げて、普通にドアの方へ歩き出した。
「先に帰ってるぞ」
「ええ、何で?ここは怒る所でしょう」
身の危険を感じて、ジョン太は所長を引き留めた。
「今日はもう、疲れた」
所長は、ため息をついて立ち去りかけ、ふと振り返った。
「そいつと寝たら、鯖丸とリンク張った事になるかも知れんぞ。がんばれジョン太」
「嫌だぁぁ。俺も帰ります。帰って一人で寝ます」
隣に、意味ありげにある天蓋付きのベッドが怖い。
「ほら、サキュバス連れて帰らないと。気が付いたらヤバイから、眠らせてから回復魔法かけましょう。
黙ってればぼこぼこにされたのなんて、分かりゃしませんよ」
「そうか、後で持って来てくれ。じゃあな」
所長は、本当に帰ってしまった。
おまけに尻を触られた。
「お前ももう帰れよ、頼むから」
ジョン太は、本気で泣きを入れた。
「ひどい事言うな。久し振りに出て来たのに」
ベッドの端に浅く腰掛けて、ジョン太を見上げた。
「鯖丸はどうなってる」
ふと気になったので、聞いてみた。
「居るよ、俺の後ろ辺りに」
目をこらしたが、別に何も見えなかった。イメージ的な話かも知れない。
「助けてやったのに、また怒ってる」
ちょっとため息をついてから、ジョン太を見上げた。
表情や動作が違うので、普段の鯖丸より二割り増し男前に見えた。
「分かった、帰るよ」
ほっとする間もなく、続けて言った。
「キスしてくれたら帰る」
ジョン太はうっと口ごもった。
確かに別人だが、顔はどう見ても鯖丸だ。これはきつい。
「あ…あのね、俺は、男同士とかそういうの、全くダメで」
「知ってるよ。だからキスだけで帰ってやるって言ってるんだ」
「わ…分かった」
腰をかがめて、軽く唇を合わせた。
ああ、何でこんな事に。
体を離そうとする間もなく、ぐいと両手を絡められ、ベッドに押し倒された。
同じ体のはずなのに、鯖丸より力が強い。
そのまま、舌を入れてゆっくりキスを続けながら、ズボンの中に手を入れて来た。
やばい、それはやばいから。
さすがに同性だけあって、どの辺が感じるか良く知っている。
顔さえ見なければ、割と…いや、やっぱり無理、絶対無理。
かちりと撃鉄が起きる音がした。
鰐丸の頭に、32口径の拳銃が押し当てられていた。
「その辺にしとけや、ガキ」
鰐丸は、いつの間に…という顔をしたが、小馬鹿にした感じで見下ろした。
「撃てないくせに」
にっと笑ってから、もう一度キスをした。
「怒った顔もステキ」
頬の毛をさわりと撫でてから、ふいにがくりと体が傾いた。
はっとした様に顔を上げたのは、鯖丸だった。
「うわ、何これ。何でそんなもん」
自分に突きつけられた銃と、怒った顔のジョン太を見比べた。
それから、ジョン太のズボンに右手を突っ込んでいる自分に気が付いて、ぎゃっと叫んで飛び下がった。
「何でジョン太のちんこ掴んでんだー、俺」
「こっちが聞きたいよ、それ」
ごそごそ服を直してから、ジョン太も鯖丸から少し離れて座った。
「うう、嫌だぁ、ちょっと勃ってた」
「言うな、そんな事」
銃をホルスターに戻して、ジョン太は不機嫌に言った。
「暁が出たんだ…」
両手に顔を埋めて、鯖丸はつぶやいた。
「ああ、出たよ」
なるべく普通の口調で、答えた。
「やっぱり…」
しばらくそのまま、じっと俯いていたが、ふいに顔を上げた。
「あいつに何かされた?」
まっすぐこちらを見て、真面目な顔で聞かれたので、適当な事は言いにくくなった。
「キスしただけだよ。まぁ、ちょっと触られたけど」
鯖丸は、さっきの状況を思い出しているらしかった。
もっと最悪の事態を想定していたらしく、安心したのか短くため息をついた。
「何か、ごめん…」
「お前が謝る事、ないだろう」
「そうかな…」
「そうだよ」
鯖丸は、少し考え込んでから、言った。
「あいつ、ジョン太みたいなタイプ好きだから、もっとひどい事されたと思った」
「変な趣味だな、おい」
意外と、そう言われると悪い気はしない。大丈夫か、俺。
「あいつ、自分の事鰐丸って言ってたぞ」
「そうなんだ」
今まで、暁がこちら側のルールで動いてくれた事は、希だった。
思いの外、上手くいっている。
「もしかして、お前、自分で暁を出したんじゃないのか」
そんな気がしたので、ジョン太は聞いた。
鯖丸はうなずいた。
「あいつ出さなかったら、俺、所長を殺してたかも」
コントロール出来ているという、ハザマの言葉を思い出した。
あの場面で最良の選択は、鯖丸を撃って殺さない程度に動きを止める事だった。
俺が選べなかったから、こいつが暁を呼び出す事になったのだと思うと、心が痛んだ。
暁が出て来るのと、また大怪我するのと、どっちがいいのかは分からなかったが。
まぁ、所長が気合いでどうにかしていた気もする。
あの人はそういう人だ。
「所長は、殺しても死なねぇよ。気合い入ってるから」
「うん、本当にすごいよね。かっこ良過ぎ」
「惚れるなよ。一応人妻だから」
ジョン太は、釘を刺した。
「まぁ、さばけた人だから、一回や二回は、やらせてくれると思うけど」
「そんなじゃないよ。尊敬してるんだ」
鯖丸は反論した。
部屋の隅で、サキュバスがうめき声を上げたので、二人は会話を中断して、顔を見合わせた。
魔法は、意識があれば体はぼろぼろでも使える。
女に全然興味のない暁が引っ込んでしまった今、サキュバスが目を覚ましたら大変な事になるのは明白だった。
「やばい、早く眠らせないと」
ジョン太は、ベルトに付けている物入れから、ファーストエイドキットを取り出した。
小型の簡易注射器と麻酔薬のアンプルを手に取り、慣れた手つきで薬液を吸い上げた。
部屋の隅で倒れているサキュバスに近寄り、革ジャンの袖をめくり上げて、一個ずつパックされている消毒綿で腕を拭ってから、簡易注射器を押し当てようとした。
そのままの姿勢で、固まってしまった。
サキュバスの魔法かと思ったが、それなら魔力の高い自分の方が、先に影響を受けているはずだった。
「ジョン太…?」
「済まん、出来ない。お前がやってくれ」
「うん、分かった」
簡易注射器を受け取る時、かすかに腕が震えていた。
昔、どういう方法でドラッグを使っていたか、大体分かってしまった。
時間が経っても克服出来ない事って、あるんだなぁと思った。
どれくらいひどい状態だったのか、何となく想像が付いた。
もしかして、俺よりジョン太の方が、ヤバイんじゃないのか…?
「カチって音がするまで、押し込むだけだから」
言われた通りにした。
少しして、サキュバスの体から、がくりと力が抜けた。
二人は、顔を見合わせて、安堵のため息をついた。
「戻ろうか」
「そうだね」
ジョン太は、床に放り出したライフルを肩にかけて、倒れているサキュバスを抱き起こした。
まだ、両手が震えているのが分かった。
鯖丸が横合いから手を出して、サキュバスを背中に負ぶった。
「ジョン太、まだ足痛いだろ」
的確な指摘をされた。
「気ぃ使わなくていいから。普通の人が持てるくらいの重さなら、平気だから」
鯖丸の普通の基準が、どの辺にあるのかは分からなかった。
たぶん、かなり高い位置だ。
低重力コロニー育ちのくせに。
「済まんな、頼むよ」
頼ってしまうと、少し楽になった。
ホテルに持って帰ったサキュバスを、所長と鯖丸で完膚無きまでに回復させた。
所長はまだいいが、鯖丸の回復魔法は、ハザマ直伝なのでほぼ拷問だ。
相手に意識がないのは幸いだった。
「一日で終わってしまった。困ったな」
所長は言った。
「三日分の料金はもらってるのに」
「じゃあ、あと二日遊びましょう」
ジョン太は、魅力的な提案をした。
普通の相手ならそうするが、サキュバスを後二日、意識不明にしておく手段がない。
「帰る、撤収だ」
所長が言ったので、二人はうなずいた。
魔界の入り口には、連絡を受けた戒能雄治が待っていた。
今回の依頼者だ。
ご苦労だったなと言って、悠木奈の腕を掴んで、車の後部座席に放り込んだ。
「いい加減にしろ、恥曝しな」
言葉を投げつけた。
魔界から出たサキュバスは、すっかり毒気を抜かれた普通の女だった。
後部座席に、俯いて座っている。
「あの…いいですか」
鯖丸が、後部座席のドアを開けた。
小さな紙切れに書かれたメモを手渡した。
「ここの先生、いい人で、ちゃんと話聞いてくれるから」
サキュバスは、顔を上げた。
「君は病気だ。治せるから」
サキュバス…戒能悠木奈は、ため息をついた。
「あんただって、治ってないじゃない」
吐き捨てる様に言った。
「これでも良くなったよ」
鯖丸は反論した。
「考えとく」
車が走り出して暫くして、渡したメモが窓から捨てられるのが見えた。
悠木奈本人が捨てたのか、誰かが取り上げたのかは、もう分からなかった。
翌日ジョン太は、溝呂木に呼び出された。
約束していたとか言われたが、全然記憶がない。
おまけに、また飲み屋だ。
「いい加減にしてくれよ、ほんと」
カウンター席で待っていた溝呂木の左側に座ろうとすると、強引に反対の席に座らされた。
「本当に憶えてないんだな」
溝呂木は言った。
「武藤にこっち側の鼓膜破られたから、聞こえないって言っただろう」
「ええ、何それ」
初耳だった。
「お前、酒弱すぎ」
「だから、最初から言ってるだろ。飲めないって」
全然記憶がない。
「鯖丸が何やったって?」
溝呂木は肩をすくめて、たぶん二度目になるだろう説明を始めた。
「あいつ、最近ろくに練習にも出て来ないしな、そんなにバイトに入れ込んでるなら、俺から一本取れば行っていいって話になったんだ」
「あのね、あいつがバイトに熱心なのは、単に貧乏だからで…」
ジョン太は言った。
スポーツ根性物だって、生活の基盤がないと出来ないのだ。
こんな話も、溝呂木に酔いつぶされる前にした気がするが。
「あっという間に一本取られて、鼓膜破られた。何なんだあいつ」
「防具は付けてたんだろ」
ジョン太は一応聞いた。
「当然だ」
溝呂木は言った。
「まぁ、仕方ないんじゃねぇの」
ジョン太は言った。
竹刀で、防具を付けた相手の鼓膜を破る様な奴なら、魔界であれだけ強いのも、納得がいく。
「弟子はいつか、師匠を越えるものさ」
「分かってるけど、お前に言われるのは心外だ」
溝呂木は、不愉快な顔をした。
「俺、剣道の事は良く分からないけど、あいつ、どれくらい強いんだ」
前から気になっていたのでジョン太は聞いてみた。
「お前も、格闘技か何かやってたはずだから、分かるだろう」
溝呂木は言った。
まあ、鯖丸が素の状態で弱くない事くらいは分かる。
「ベストエイトには毎回入るくらいかな」
「ええと、県内で?」
「全国だ、バカ」
バカ呼ばわりされた。
「ええ、そんな強いの、あれ」
まるまるバナナを食っている、バカそうな鯖丸の笑顔が脳裏に浮かんだ。
「強いんだよ、あんなで」
溝呂木も、頭を抱えた。
「昔、うちの道場に来た頃は、防具を付けたらまともに立てなかったのにな」
低重力障害の子供は、大体そんな感じだ。
「昇段試験を受けるには、修行期間が足りないから、まだ二段だが、実際の実力はもっと上だと思う」
剣道の昇段システムについては、全然分からなかった。
実力があるなら、気にしないでばんばん上げてやればいいのに。
たぶん精神面とか、どうでも良い様な要素があるのだろう。
「魔界のバイトは、修行の邪魔になると思ったが、逆なのかも」
「どうかな、真剣を振り回してたら、肝は座ると思うが」
考え込んだジョン太のグラスに、どぼどぼ酒が注がれた。
「まぁ、飲め」
溝呂木は言った。
「飲まねぇよ。前に飲まされて、どうなったと思うんだ」
「知らん」
溝呂木は断言した。
「飲め」
「嫌だ」
二人は、にらみ合った。
その頃鯖丸は、自分の部屋で布団をかぶったまま、途方に暮れていた。
一人暮らしの無精な大学生を絵に描いた様な汚い部屋には、AVとエロ本が散乱していた。
「やっぱりダメだー」
セーラー服物のよれよれになった本を放り出して、手書きタイトルの付いたDVDを古いゲーム機に突っ込んだ。
古いので起動が遅い。
やっと出て来た中身をばんばんスキップして、いい場面だけ再生したが、しばらくしてコントローラーを放り出した。
「これもダメだ。どうなってんだよ俺」
魔界から戻って以来、全然勃たなくなっていた。
いい感じになって来ても、あの触手に巻かれていた感触を思い出すと、もうダメだ。
ちょっと思い出しただけで、鳥肌が立っていた。
二十歳で童貞なのにEDだなんて悲惨過ぎる。
「どうしよう…」
EDって泌尿器科だっけ…前に怪我した時は労災が出たけど、これは無理な気がするし、もうちょっと様子を見てから…。
パンツ半脱ぎでエログッズを散らかした状況だが、本人は真剣に悩んでいる。
ふいに何か思い付いたらしく、ケータイに手を伸ばした。
「もしもし山本。ごめん、寝てた?…お前熟女物のAV持ってたよな。あれ貸して。今すぐ」
電話の向こうで、明日でいいじゃんと山本が文句を言った。
「ダメなんだよ。ていうか、もうダメになってるんだ。…え、理由は話すと長いけど、エロ触手に巻かれて、全然ダメに…」
「いいから落ち着け」
全然話が見えない。
「じゃあ、これからそっち行くから」
相変わらず、いい友達だった。
数時間後、山本特選熟女物AVで、鯖丸は復活した。
山本は、再生も出来ないのにしっかり持ち帰っていた『世界の車窓から』を、交換に持って帰って行った。
程なく山本からメールが届いた。
『すげぇ、これ。世界の車窓サイコー』
「うわ、今度焼いてもらお」
溝呂木の心配とは全く別の方向へ、着実に変な風に育ってしまっている鯖丸だった。208.10/30up
注・この物語はフィクションです。現実の「世界の車窓から」や石丸謙二郎氏(電ライナーのオーナー)とは一切関係ありません。
後書きとか色々
良く考えたら、触手の出番少ないですね。
これ書いてた時は、何かしんどくて、仕事から帰ったら即寝してました。
そんで、朝早く起きて、さわやかな朝の光の中、触手に巻かれるシーンを書きながら「ああ、わしって何てダメ人間なんだろう…」と思うと、けっこう気持ち良かったです。
確か、山に登りながらも、触手の事考えてた記憶があります。
全国の山登ラーに全力で謝れって感じですね。
ところで、このお話では山の人、山本君ですが、別に熟女マニアではありません。
単なるAVコレクターです。それはそれで、どうかと思うけど、まぁ、鯖丸の友達だし、いいか。
座右の銘は「AVは別腹」普通の次回予告
一話目の後書きにも書きましたが、この話は、オリジナルファンタジー同人サークル『月夜飛行』で描かせてもらっているマンガの小説版です。
次回からやっと、月飛でやってる話になります。
内容はかなり違いますが、あらすじは大体同じなので、月飛の話に追いつかない様に更新して行こう…という気持ちは、正直全然無いので、気を付けてください。
次回、鯖丸童貞喪失編に続きます。